「俺たち2」管理人による遠距離通勤電車マガジン

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逝く

弟の義父、逝く


もう一週間か。
先週、弟の義理の父親が亡くなった。
翌日は通夜、そしてその翌日は告別式だった。
78歳という年齢は昔だったら大往生なのだろうが、現代ではそう年寄りでもない。
死に顔は10歳は若く見えた。
ルックスもなかなか良かった。
彫りが深く、カークダグラスにどことなく似ている。
私は前からそう思っていた。
棺の中の彼はインテリジェンスが漂う役者のようにも見えた。

通夜は四街道の山の中にある集合住宅の集会室で執り行った。
森に囲まれた寂しいところだ。
5階建ての同じような建物が深い森の中に寄り添って建てられている。
雨こそ免れたが、連日の雨で、森のしっとりとした冷気が押し寄せてくる。
まるで晩秋のような陽気。
集会場の入り口の2つの提灯の灯りも湿った空気の中に淀んでいる。

故人は大阪の出身だった。
戦時中予科練にいて、そのまま関東の人間になってしまった。
若い頃の彼のことを私はよく知らない。ある時、偶然にやはり予科練にいたという社長と巡り会い、そこで働かせてもらうことになった。そして、千葉県柏市郊外にあった社屋の二階を住居としていた。社屋の2階といっても、やっと生活できるような狭い部屋だったそうだ。
間もなく、同じ会社で経理をしていた女性と知り合い、結婚。
故人の生涯の伴侶となった。
妻には二人の連れ子(姉弟)がいた。
姉のほうが私の弟の妻である。

祭壇に飾られたの故人の写真は、素晴らしく男前だった。私はここ4年くらいは会っていない。最後に会ったのは、大網街道の途中にある大きな病院の中だった。写真はその頃のものだと推察される。直接の死因は肺炎。5年前に食道癌が発見され、放射線治療で一旦治ったのだが、その後、肺癌、更に脳腫瘍になり、ここ1年は入院していた。不幸中の幸いか、入院中もそれほど痛がらず、苦しまずに逝けたらしい。脳腫瘍が痛みを和らげる作用をしていたのかもしれない、と医者は言っているらしい。私の父の時とまったく逆だ。私の父は苦しみ貫いて死んでいった。

故人はギャンブルが好きだった。毎週必ず競馬に行っていた。パチンコも好きだった。だが、身を崩すような賭けはしなかった。働くのも、生活が成り立っていれば良いと考えていたらしい。だからいつまでも会社の二階なんかに平気で暮らしていた。二人のこどもはそれぞれ高校を卒業すると同時に家を離れた。故人は、定年を迎えると警備会社にパートとして雇われた。それでも、競馬が楽しみだった。働いて、週末に遊ぶ。貯金は無さそうだった。

今から15年くらい前、故人の長女と私の弟が結婚した。結婚生活は幕張本郷でスタートした。こどもが生まれると、四街道に引っ越した。環境の良いところだった。すると、暫くして故人の夫婦も孫を追い掛けるように、四街道の集合住宅に引っ越した。故人の終焉の地は大阪から数百キロメートルも離れた所になった。

お坊さんは近くの真言宗のお寺から来た。
後から聞いたら、本当の宗派は浄土真宗なのだそうだ。
遺族に詳しい者がいないので、おそらく葬儀屋の手配なのだろう。
しかし、言い方は変だが、いい意味での生臭坊主という感じで、私は親近感が持てた。
若林豪がちょっとひょうきんになった(分からないか)ようなルックスで、明るく登場した。(不謹慎でごめんなさい。)
読経も現代風な節回しのような気がしたし、木魚だけではなく、鈴のようなものや鐘や、南京玉簾のような鳴物が所々で登場するので、たいくつしなかった。リズム感、声量ともに音楽家である。
おそらく、カラオケもうまいのだろう。

深い森の中の通夜はしんとしている。
読経も森の中に吸い込まれてゆく。
急なことで、大阪の親戚は通夜の席にいなかった。
故人の妻の親戚も一人も来ていない。
高齢なので、来られないのだろう。従って、通夜は非常に少ない人間だけで執り行った。
私の母が受け付けに立ったが、弔問客の姿が無く、途中でやめてしまった。

通夜の会場、即ち集会室には6組の貸し布団が重ねられていた。大阪から来た親戚が泊まる為で、故人の娘、即ち弟の妻が用意したものだ。使われないまま、返すことになりそうだった。故人の妻は、少しぼけが始まっていて、貸し布団の必要は無いと言う娘の話を忘れていて、つい頼んでしまったらしい。私の母親にも近くの山でタケノコが採れるという話を5回くらいしていた。やはり、夫が存命中、近くの病院に何度も行き来していたと聞くが、それは「今行ってきたことをすぐ忘れてしまうからだ」、と娘が私に教えてくれた。

故人には3人の孫がいる。長女のこども。中学2年と、小学校6年のいずれも女の子だ。それから長男のこども。こちらは生まれたばかりの赤ん坊だ。長男は、若い時に結婚し、そして離婚、最近再婚し、北海道で暮らしている。中学2年の孫は、お爺ちゃんの死に顔が可哀相で見られないと言った。多感な時期だから仕方無いだろう。しかし、そうは言っても、お坊さんに派手なカラーリングの携帯電話の待ち受け画面の自慢をしていた。いかにも現代っ子だ。小学校6年の孫はお姉ちゃんが快活な性格と対照的に物静かで、存在を忘れてしまうほどだ。

6時から始まった通夜だが、一通りの読経と焼香が済むと、ますます人が少なくなった。お坊さんは、豪快に天ぷらと寿司をぱくぱく食べ、冗談を言っては大きな声で笑い、そして帰っていった。お坊さんがいなくなると、いよいよしーんとした通夜になった。少し遅れて、長男の会社の人間が数人来たが、ほとんど何も食べないで、帰っていった。集会室には、私と遺族とお手伝いの近所のおばさんだけになった。こんなに静かな通夜は珍しい。若くして、不慮の事故、あるいは病気で突然亡くなった人の通夜は悲しみに覆われる。だが、それあ例外で、だいたいが盛り上がる。私の父の時はさながら宴会場のようだった。

私は息子も連れてきたので、早々失礼する。夜の8時半頃だった。あたりは真っ暗で、幕張からさほど離れていないことが嘘のようである。寒いせいか、ジーとなく夏の虫も声を潜めていた。霧雨が静かに降り、前車のテールライトが滲んでいた。

翌日は告別式だった。昨日より人が増えていた。大阪から親戚が到着したのだ。今日も天気がはっきりしない。午前中はずっと暗かった。森の中から昨日の坊さんが現れた。森には霧がかかっていて、急に姿を表したので、少し驚いた。
「風流な登場のしかたですね。」私はお坊さんに言った。
「いや、早く着いて、暇だったから散歩してたんですよ。この森、なかなかですよ。こっち側は暗いですけどね、あっちは公園になってるんですよ。軽井沢にでもいる雰囲気がありますよ。」坊さんはおしゃべりだ。



告別式は11時半からだ。
私も30分くらい早めに着いていたので、森を散歩してみることにした。涼しいので、確かに軽井沢の別荘地にでも来ているような気分になった。前々日まで降った多量の雨で森全体がしっとりしていて、木の放つ独特の香りがした。故人もこうして朝の散歩を楽しんだのだろうか。そういえば、故人の妻がこの森の外れでタケノコを採るのを楽しみにしていると言っていた。

故人の妻は、棺に花を入れる時、必死に故人の顔を撫でていた。
「ありがとう。ごくろうさま。」とつぶやくように言った。
周囲にいた数人の女性がハンカチを手に当てた。
出棺の時が来て、長男の挨拶をした。
「父は立派な業績を上げるタイプの人間ではありませんでした。しかし、人生を人一倍楽しく生きたと思います。これから私ども遺族も、楽しく人生を過ごせるよう、力を合わせて頑張ってゆきたいと思います。」

棺は私を含む男が6人がかりで外に運ばれ、そして、霊柩車に乗せられた。
静かな森に、霊柩車のクラクションが鳴らされた。火葬場に向かう車の列の最後から二番目に私の運転する車。前車を追いかけるように出発した。森の中をゆっくり抜け、外食チェーンの派手な看板が立ち並ぶ中途半端な田園風景の中をのんびりと5台の車が走る。四街道には火葬場が無いので、隣の佐倉を通り抜けて、酒々井というところまで行かねばならない。

故人と私の繋がりといったら、通算でも10回くらいしか会っていない。
人柄、そして過去のこと、殆どが伝聞になっている。
それに比べて私の父は、頻繁に行き来していた。
競馬、パチンコなどに興味が無い父だったが、共通点はお互い自由奔放に生きていたということか。
一緒に旅行に行くようになり、そのうち囲碁の仲間になる。 
故人の品の良い顔だちは、競馬よりも囲碁のほうが向いていた。

5年前、私の父が癌で逝ってすぐ、彼も癌が発見される。
皮肉なもので、死んだ父が彼に癌を移していったような感じになってしまった。
しかし、彼はそれから5年生きた。
手術を拒み、放射線治療をしていたのがよかったのかもしれない。
私の父は癌が発見されてすぐに手術をした。
医者の判断だから今更どうの、というつもりではないが、術後、ずっと痛みがあり、約1年後、苦しみながら死んでいった。

それにしても不思議ことは、彼が何故、親兄弟たちと暫く縁を切っていたか、ということだ。大阪から来た彼の兄弟、そして彼の甥、姪は、誰もが知的な顔だちだった。暮らしぶりも豊そうだ。これから火葬するという時に話したところによると、やはりそれなりの生活をしているようなことを言っていた。彼が久しぶりに実家に電話した時に、老いた母は「あんたが生きていただけでも良かったよ。とっくに死んでいるかと思っていた。」と電話の向こうで泣いていたという。

火葬の最中は、お清めどころで飲み食いする。死体が強力な火で焼かれている時に、なんと節操が無いような気もする。せめて、炉の前で待つくらいのことをしてやるべきだとも思う。しかし、2時間もかかるので仕方ないか。炉の前でずっと待っているのは、大変だ。だが、ある意味で78年間生きてきた肉体が、たった2時間で焼けた骨だけになってしまう。この瞬間に人間は、生き物から単なる物体になる。それも燃えかすになる。なんともあっけない。

近ごろの火葬場には煙突が無いので、だいたい今どんな感じなのかも外からでは分からない。私のこどもの頃に、近所の川沿いに火葬場があった。焼き始めと、途中と、最後のほうでは煙の量と色が変化した。それに、妙な臭いも漂っていた。煙突が無いのは好ましいけど、煙突が無くては昇天しないのでは、などと心配になってしまう。老いた妻を残してゆくのは、さぞや心残りであろう。

一連の葬儀が全て終了した。火葬場から故人の家の前まで一旦戻り、私は遺族に軽く会釈をしただけで、失礼した。木立の中を抜け、靄のかかったような東関東自動車道を走り、自宅へ戻った。この2日の間、5年前の父の姿をダブらせていた。天国で5年間、囲碁仲間を待っていたのだろうか。いや、そんなこと考えたら私の父が死を導いたようで、申し訳ない。とにかく安らかに眠ってほしい。

私は会葬お礼の箱の中に入っていた1合の酒を父親の写真の前に置いた。夕食を早めに済ませ、久しぶりに息子と一緒に寝た。小学校2年生の息子は3歳になって3日後に祖父、つまり私の父の葬儀を経験している。しかし、殆ど記憶が無いようだ。昨夜の通夜に行ったことで、人の死がどういうものかを初めて理解したのではないか。まして、遺体を見ているので、強烈に記憶に残っているようだ。隣合わせで布団に横になった父子は必然的に昨夜の通夜のこと、そして今日の告別式のことに話が及んだ。

「ねえ。お父さん。昨日の人って、あれ画像だよね。」小さな灯りだけを残し消灯した寝室で、息子が私にわけのわからないことを言った。
私は祭壇の遺影のことを言っているのだと思った。
「ああ、お爺ちゃんの写真ね。」
「違うよ。箱の中に入ってた人。」
なるほど、死に顔が造りものだと思っているらしい。
しかも、生意気にパソコンをやるようになって、画像という言葉をとんちんかんながら覚えてしまっている。
「ああ、本物だよ。人形かと思っていた?」
「ええ!本物なの?人って、死んだらみんなああなっちゃうの?」
息子が私のほうに顔を向け、目を大きく見開いている。
「そうだよ。おとうさんだって、いつかはああなっちゃう。」
「それ以上言わないで。僕、悲しくなっちゃう。」

いつもはやんちゃで、寝床に入ってからもいつまでもふざけて騒いでる息子が、泣けることを言う。
人間、生まれた時から死に向かって歩んでいる。いつかは、私も息子に看取られ、あるいは、全然別な場所で死を迎える。結婚もこどもが生まれたのも遅かった私の息子はまだ小学校2年生。相場よりも早く親の死に遭遇する割合が高い。完全に中年になってから、物事に段々鈍感になってから親の死を体験した私とはまた違った状況になるだろう。せめて、1年でも長生きして、幼い息子が涙を流さなくても平気な年齢になるまで、私は頑張ってゆこう、なんて、余計なことまで考えてしまった。デジタル時計の青白い数字の光が、ぼんやりと息子の寝顔を照らしていた。

2003/7/15

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しばざ記 Vol.40


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