小説 幕張が消えるとき
zaki

千葉市の海浜幕張地区は東京湾に面していて新都心と住宅地区からなる新しい街である。住宅地は幕張ベイタウンと呼ばれ、人口は2万5千人。安田も3年前からこの街に住むようになった。

中堅企業の中間管理職。決して裕福ではないが、それなりの生活だった。才色兼備の妻と、一男、一女のこどもに恵まれ、そこそこ幸せな生活を送っていた。マンションも3年前、少しだけ無理をして新築で購入したので4人で生活するには十分の広さだった。

夕食を済ませ、安田はこどもたちと一緒に風呂に入る。久しぶりだったので、お伽話をしてやりたかったが、一つも思い浮かばなかった。風呂から上がっても、ぼーっとしていた。こどもたちが「おやすみなさい。」とパパにキスをする。そこまでは普段とあまり変わらなかった。妻が「ビールでも飲みますか?」と安田に尋ねた。安田は食事のときにビールを飲むのが日課であるが、食後の晩酌はしない。

「じゃあ、一緒に飲もうか。」安田は妻に向かって微笑む。
妻もにっこり笑い、キッチンの備え付けのカウンターの奥でなにやらツマミの準備をしている。その間、安田は寝室に行ってみた。小学校2年と1年の二人のこどもは仲良く寝息をたてていた。日中、思い切り遊ぶので疲れているのだろう。布団に潜り込むとあっという間に眠ってしまう。

安田は苦笑しながら彼らの頭を軽く撫で、そしてリビングに戻る。既に妻はソファに座り夫の帰りを待っていた。
「ごめんなさい。乾きものしかなくて。」と、妻。
「いや、いいんだよ。十分。」軽く笑ってはみたものの、安田は、不自然な笑いになっていないか気になった。
なにしろ、ここ数日は決算の関係で仕事がハードだった。こんなゆったりとしたことなどなかった。だから、ちょっと戸惑っていた。

「あなた、テレビでも見ますか。」ビールを少し飲みながら妻が真顔で言った。
「もうどっちにしたって決まったことだ。仕方ない。どのチャンネルを回しても同じだよ。」安田は吐き捨てるように言う。
せっかくの雰囲気が台無しだ。
「そうね。もうどうにもならないんでしょ?仕方無いわね。」妻の顔からは完全に笑顔が消えていた。

安田はビールを一気に飲み干した。
「意外に静かね。」妻がぽつりと言う。
「ああ。1時間前にはあんなにバタバタしていたのにな。みんな諦めたんだろ。」
「お隣の早川さん、何しているのかしら。」
「うちと同じように最期の晩酌を楽しんでいるんじゃないかな。」
「そうね。どこへ行っても同じだしね。」
「そうそう。へたにこの街から抜け出して、渋滞に遭ったり暴徒に襲われたりするよりは、のんびりと死を迎えるのも乙なもんだよ。」

本当に静かだった。夕食の少し前、テレビのニュースが狂ったように、東京湾岸地区が1時間後に壊滅すると発表した。冗談だと思ったら、あちこちの放送局が同じことをわめいていた。それとほぼ同時にマンション内に地響きのような騒音が起きた。パニックになった住民がいっせいにドアを開け、そしてどこかへ飛び出していった音だ。安田も動揺したが、幸いこどもたちが復習の為に勉強部屋に籠もっていたので、何事も無いような顔で接することが出来るまでの時間があった。

電話は何度もトライしたが無駄だった。おそらく親戚からも安田宛てに電話をかけている筈であるが、使いものにはならなかった。安田は激しく慟哭する妻を説得して、幕張ベイタウンのこの住まいで家族4人仲良く死ぬことを諭した。妻もまた、こどもたちが勉強部屋から出てくるまでに落ち着きを取り戻していた。どうにかなることならば、慌てふためくことも一つの手段なのだろうが、取り乱しても何もいいことが無いのは明白だった。

あと数十分、あるいは数分で幕張ベイタウンが灰になる。分かっていながらそれに対処する術は無い。どこかの狂った国が日本に向けてメガトン級の核を搭載したミサイルを発射した。飛来してくるのは3、4基という。1基だけでもかなり広範囲な被害が出る。そしてその1基の着地点が幕張だったのだ。

一瞬、クルマを飛ばして、出来るだけ街から離れることも考えた。しかし、どれだけスピードを出しても安全圏へ移動できるわけがないし、皆、考えることが同じであれば、交通が麻痺するに決まっている。次々に入ってくる情報では、1基は迎撃ミサイルによって空中で爆破したことが伝えられた。ほかの3、4基は迎撃出来る機を失い、その可能性がゼロなのだそうだ。迎撃されないような軌道を描き、レーダーに感知しないような機能などが着いた全く新しく開発された弾道ミサイルなのだそうだ。

しかし、ひょっとすると、迎撃に失敗した3、4基のミサイルも実はその後、空中爆破に成功したというニュースに変わっているかもしれない。
「やっぱり、テレビをつけてみようか。」
「そうよ。ひょっとしてなんとかなってるかもしれないわよ。」
安田は期待を込めて、リモコンでテレビのスイッチを入れた。
テレビは何も映っていなかった。
「東京辺りは既に着弾したのかな。」
「そうね。幕張より先だったのかしら。」
そう言った途端に部屋の電気が消えた。
妻は小さく息を漏らした。
安田は、こういう時に冷静さを保っている妻と結婚して良かったと心から感謝した。

(C) 2004/4/8 Oretachi Jp

俺達のコラム・トップページへジャンプ!


俺達のホームページ・総合インデックスページへジャンプします。