Nackyのコラム Vol.20110311 俺達のホームページ

広告代理店勤務、ロックミュージシャン(Blue Color Union)、ベイタウン中年バンドのメンバー、2輪ライダー、数々の肩書きを持つNackyのセンスあるコラムを掲載。




ウンコ踏んだ靴で歩き続けろ
(2011年3月11日 大地震の日)

こんな状況下で、サッチモのWhat a wonderful worldを聴くと泣いてしまう…ご心配メッセージを頂いている皆さま、なかなか個別にご返事できずに申し訳ありません。

その日の朝、俺は思い切りウンコを踏んだ。自宅マンションを出てその目の前で、おろしたての新品の革靴で。電車の中で靴底から異臭を発し、みんなすまんと、しかし俺が悪いワケじゃないんだと心の中で叫ぶ。オフィスの最寄駅に着くと、裏の公園に逃げ込み、木の枝で靴底の目地に食い込んだウンコをこそぎ落とす。小枝ちゃんゴメン、こんな事のために君を折ってしまったよ。

2011年3月11日、東日本を襲った未曾有の大地震で、我が国は多くの命と財産を失ってしまった。それから数日経った今まで、神も仏も無い被災地の現状を見ていると、何をやるにも"不謹慎""自粛"の文字が頭によぎる。楽しさを売りにしたイベントやTV番組は全て中止となり、CMは企業側が自粛し殆どがACの啓蒙CMとなり、人々は我れ先にと物資や食料の買い占めに走る。自分の部屋でお茶を飲みながら震災報道を視聴することは"不謹慎"なのか?東京でガンガン仕事することは"不謹慎"なのか?こうしてブログを書いていることは"不謹慎"なのか?食材が無いため外食に出ることは"不謹慎"なのか?"不謹慎"のボーダーは俺には分からない。誰も外食に行かなければ外食産業へのダメージは計り知れないだろうし、誰もDVDを借りに行かなければレンタル業界や映画業界は潰れてしまうだろう。誰か「不謹慎のボーダー」を教えてほしい!

ここから先は、震災当日の記憶を薄れさせないための、自分自身の為の防忘録である。

この地震に襲われた際、「いよいよ来たか」「終わりかもしれない」と思った人は多かったろう。それほど今回のヤツはスペシャルで手に負えなかった。オフィスのテレビを点けると、津波による血も涙もない大被害の光景が映し出されていた。直ちに家族に連絡を試みるも、当然のように全く繋がらない。今になってみれば恥ずかしいことなのかもしれないが、そんな時には自分や家族だけの身の安全をとっさに考えた。鉄道も高速道路も寸断されているらしい。こうなったら判断は早い方がいい。暗くなってくると状況は更に悪くなるに違いない、そう思い、江東区から自宅の千葉市まで徒歩で帰る決断をした。普段から趣味の自転車や散歩で鍛えているつもりの脚力にはチト自信があったからだ。

仕事を中断し、昼食のために女房が持たせてくれたおにぎり2個とデスクの引き出しの中に入っていたバレンタインに頂いたチョコレート、そしてミネラルウォーターのPETボトルを持って歩き出す。

こうして、想像を超えた遥かなる家路が始まった。ここからは自分の記憶に留めておく為にも、上記添付画像の番号に併せて記していきたい。(1)のオフィスを16:00に出発し、東京湾側に向かって歩いていくと、液状化してズブズブの歩道に早くも行く手を阻まれる。運河にかかる橋も路面がズレてしまっており、まともに通れない状態が続く。辰巳団地では高齢者の方々が屋外で怯えており、ヒビ割れた外壁とともに惨状を見せつけられる。

車道や歩道を避けるように、国際水泳場や夢の島公園の中を通り、新木場駅(2)に到着。ここまで早足で約30分、なかなかいい出足だ。当然のように京葉線はストップしており、行けるところまで国道357号線を徒歩で行く決心を固める。正直、この段階では途中で京葉線の運転再開を見越していたが、それが後々痛手となってしまうのだった。

まず最初の難関である(3)の荒川河口にかかる湾岸大橋を渡り始める。我が家までは湾岸沿いの大きな橋を数カ所渡らねばならない。もしそのうち1カ所でも通行できなければ、相当な長距離を迂回しなければならないが、この湾岸大橋は何とか無事だった。自分は重症の花粉症である為にマスクを着用していたのだが、橋の上では川面を渡ってくる突風にマスクを持っていかれ何の役に立たずに花粉をたっぷりと吸い込んでしまった。このことも後々自分を苦しめる。橋の上では、自分と同じように徒歩で家路を急ぐ人の群れの歩みがやけに遅く感じてしまい、特に横に広がって歩く人々を抜いていくのに難儀する。今に思えば周囲が遅かったのではなく、自分が急ぎ過ぎていたのだ。

荒川を渡り終え葛西の街に入ると、想像以上に液状化・地割れした歩道に阻まれペースダウン。そして、新品の革靴の歩きにくさと、暖かいがズッシリとした厚手のピーコートの重さ、書類をぎっしりと詰めたカバンの重さがボディブローのようにきいてくる。一瞬、葛西に住む友人宅のことを思い、クルマを頼むことも考えるが、彼の家だって同様に混乱しているだろうし、それにこのR357のピクリとも動かない大渋滞。そこは初心貫徹で歩くのみだ。何台かの自転車が壊れて放置されているのを発見し、自分のメカ知識なら直せるとも思ったが、厳密には拾得物横領(or窃盗)になってしまうので、ぐっとガマンする。

第二の難所、旧江戸川河口の舞浜大橋(4)に差しかかるが、荒川河口同様に突風にさらされ、マスクのゴム紐が伸び切って使いものにならなくなってしまう。R357でまんじりとも動かないドライバー達は、皆一様に疲れ切った表情だ。豊洲を出発してから約2時間、ようやく千葉県に入った。そこで目にしたものは、激しく液状化した光景だった。気になって(5)の界隈で舞浜駅前とTDLの駐車場を見て回るも、車のタイヤや腰付近まで土砂に埋まっている。歩道や車道にもドブネズミ色の土砂が深く堆積し行く手を阻むが、焦ることで却ってつい急ぎ足になってしまう。

ほどなく(6)の新浦安に到着。ここまでで3時間を消費しており、陽もとっぷりと暮れている。相変わらず電車は動かず、タクシー乗り場には長蛇の列だ。もしタクシーに乗れたとしても、この大渋滞では文字通り歩く方が早いだろう。新浦安に住んでいる弟家族のことが気になり駅の方まで回ってみるものの、そこも液状化でズブズブの酷い状態。この歩き難さでつまずいてしまうことを恐れ、再びR357に戻る。そこで空腹が限界に達し、まず1個目のおにぎりを頬張りながら歩く。街のコンビニは停電や商品棚の破損でどこもシャッターを降ろしており、自動販売機は軒並み倒れている。これでは道中の食料補給は難しい。妻のおにぎりがどれほど有り難かったことか。

新浦安の住宅街からR357に戻る途中、歩道橋や陸橋が殆ど通行できなくなっており、ランドマークを見失い道に迷いそうになる。無駄な距離を歩いた徒労感と革靴と重いコート、そして花粉症の症状で、徐々に疲労がたまってくる。果てしなく続く(7)付近の直線区間。周囲は何も無く、ただひたすら大渋滞している車の列のみ。大渋滞に耐え切れず、歩道の植え込みに向かい立ちションするドライバーが続出。この殺風景な景色の中、次第に距離感がマヒしていき、自分がどこを歩いているのかも分からなくなってくる。駅を見つけ、自分の中ではそれが二俣新町駅だと思い込んでいたのだが、まだひとつ手前の市川塩浜駅と分かり絶望感にさいなまれる。そういえば、二俣新町に行くのは(8)の江戸川を渡らねばならないのに、まだ渡っていなかったことに気付いた。心が折れそうになった時、地元の仲間達から「大丈夫か!?」というメールが届いた。それまで、携帯通話もメールも何も発信できない&受信できない状態だったのだが、それを読んで少し力が湧く。しかし返事を打つ気力が無い。なんとか1行だけの返事をするも、何度も自宅や女房に電話をしていた為、携帯のバッテリーも底をつきかけている。

ここでトイレがガマンできなくなり、(8)の市川大橋のたもとから河原に入って小用を足す。今まで同じ方向に向かって歩いていた人々の姿は殆どいなくなり、荒涼とした風景の中で一人きりだ。東北の被災地に思いを馳せるも、iモードが繋がらないために情報が何も分からない。橋梁の長さだけでいうと、この(8)の江戸川河口の橋は両岸の河原にまで跨がっているため、(3)の荒川河口橋より長いのではないか。誰もいない橋の上で吹きすさぶ北風で頭はもうろうとし、酷い花粉症の症状で呼吸が苦しい。橋を渡り切ったところで、東京外かく環状道路のランプウェイ工事によって何カ所も歩道が寸断されており、道に迷いそうになりながら、反対側(上り線側)の歩道に出た。二俣新町駅付近に差しかかると、歩道の液状化と地割れは一層酷い状態になっており、真っ暗な中でつまずきながらも泥と瓦礫の中を歩く。

もうすぐ南船橋のららぽーと(9)に着く。この時点で新品の革靴で歩くことが限界に達しており、ららぽーとでスニーカーを買うことを計画していた。南船橋が近づくにつれ、ららぽーとの従業員なのか何人かの歩行者とすれ違う。そして道中の最後の大きな橋である海老川河口の橋を渡り終えると…そこにはすっかり電気が消え閉店した真っ暗なららぽーとが姿を現した。脚の痛みと重い荷物、停電し真っ暗で歩きにくい道、ひどい花粉症と家族への心配で絶望的な気持ちに拍車がかかる。ここにきて、それまで歩くスピードが速過ぎたことにようやく気付いた。

とはいえ、幕張まであと2駅である。ここまで歩いてきたのだから、あと2駅分ぐらいは気力で乗り切れば楽勝だろう。ところが暫くすると、その計算がまた甘かったことに気付かされることになる。再び空腹に襲われたために2個目のおにぎりを食べながら真っ暗な南船橋駅の海側に回ると、そこはさらに真っ暗。駅前の若松団地の灯りも全て消えており、冗談でなくほとんど視界がない。しかも路面の液状化がひどく、不意に革靴の中にまで泥が入ってくる。R357から海岸通りに出るために裏道を通る。そこは大渋滞している車のアイドリング音も聞こえない暗闇の世界だった。もしかすると自分以外の人間は皆滅んでしまったのではと、底知れない不安に苛まれる。ようやく裏道から海岸通りに出ると、そこも停電して歩道が真っ暗。ピクリとも動かない大渋滞の車のライトも歩道には届かず、孤独に歩を進めるも、脚が歩くことを拒否している。だが遠くに見える幕張新都心の灯りは地元は停電していないことを教えてくれている。一番高い建物であるAVAホテル(旧プリンスホテル)もどうやら真っすぐ建っているようだった。

しかし、歩けど歩けど、幕張の街に近づけない。たくさんの酷い靴ズレによる限界を超えた足の痛みと、少し歩くたびに足を突っ込む泥の水たまりとアスファルトのめくれや地割れに阻まれ、まるでカタツムリのようにノロノロと歩くことしかできない。今朝、スニーカーで出てさえいれば、軽いダウンジャケットを着てさえいればと無駄に後悔する。朝この靴で踏んだウンコはもう既に完全に落ちているだろうと無意味なことも頭をよぎる。ようやく新習志野駅に続くT字路陸橋の下を通過。南船橋駅から既に1時間が経過しているが、幕張新都心の灯りはまだまだ遠い。なぜにこれほどまでに遠いのか、後日地図を見て判明する。たった2駅だが、(10)の距離は全体の1/3近くにも達するほど長いのだ。ここでエネルギーと気力が萎えてしまい、最後のチョコレートを口にし、PETボトルの水を一気に飲み干すと、少し元気が出てきた。iPodのバッテリーが切れてしまったので、ひとり大声でStand By MeやStarting Over、Beat Surrenderを歌いながらヨロヨロと歩き、習志野市と千葉市の境となる浜田川を超えた。

ようやく我が街に入ってきたものの、QVCマリンフィールド(旧マリンスタジアム)前は液状化と地割れで変わり果てていた。自宅マンションは何とか真っすぐに建っているようだ。灯りも点いているのが見えるが、街路樹や街灯の一部は傾き歩道のブロックは割れてめくれあがっている。心配になり幕張の浜に通じる公園を回ってみると、液状化が酷く無惨な状態だ。ほどなく最後の信号を渡り、なんとか自宅マンションへ。隣の公園も液状化が酷く,50cmほどの高さにまで吹き出した土砂が堆積している。自宅エントランスの石畳もヒビだらけだ。気持ちは急くがなかなか足が進まない。玄関に辿り着くと、無情にもエレベーターが止まっている…自室のある階までひとつひとつ階段を上がっていき、這々の体でインタホンを押すと、心配しきった女房がいた。出掛けにウンコを踏んだ新品の革靴は、何度もつまずき泥に浸かってボロボロに、オフホワイトのスラックスは泥ハネでドブネズミ色のシミだらけの姿に、ピーコートはホコリだらけになってしまったが、約30kmを歩き通した。最初から飛ばし過ぎたり見込みが甘かったこともあったが、約6時間の行程。靴下を脱ぐと、そこらじゅうの皮膚がめくれて出血していた。

こんなことは何の自慢にもならないし、貴重な体験かと言われれば、実はそうでもない。ただ単に必要に迫られたまでだ。そんなことよりも、我々は被災地に援助の手を差し伸べ、復興を担っていかねばならない。被害の少なかった自分達は、今何をすべきかの判断が難しい。電力不足の中、節電のために仕事や生産活動を控えるべきなのか、それとも一刻も早く日常の生産活動に戻り、経済の停滞を少しでも防ぐ努力をすべきなのか。今は自分では判断できない。今できることといったら、無駄な電力や買い占めを控え、被災地のことや原発のことをただ祈ることと、義援金を出すことぐらいである。己のあまりの無力さに愕然としてしまう。しかし、やるべきことは山ほどある。

これほどまでの大惨事が起きてしまっても、朝には何事も無かったように東から太陽が昇り、被災した街を照らす。今こそ、我々日本人全員がこの試練に立ち向かい、団結して乗り越えていくときだ。がんばれ東北、ありがとうニッポン。

2011.3.18 Nacky
(ネタ元:http://www.myspace.com/nackys/blog/542418070



自己紹介
【F1スペシャリストから女性下着博士へ(笑)】

趣味は“バンドとバイク”という、昭和の不良高校生のようなパンクなジジィです。休日はバイクor自転車に乗るかイジるか、野外ライブをするしか過ごし方を知りません。よって、雨の休日は廃人です。

とにかく2つの車輪しかない不安定な乗り物が大好き。モーターサイクルやMTBでムチャ走りをしての生キズが絶えません。また、ギターやベース、ピアノなどの楽器を与えると制止されるまで弾き続け、自作のヘンテコな曲をその場で作りながら歌い続けます(本職はベース)。ジジィはジジィでも、“スーパージジィ”を目指して日夜努力中。若い女性からはイマいちモテないが、オバちゃんやガキんちょ、オカマに対してはいつも爆発的なパワーを発揮します。家庭や仲間うちでの呼び名は「人間に最も近いサル」。

自分のバンドのサイト↓です。
http://www.cyworld.jp/bluecolorunion
「サルは一体どんな音楽を創るんだ?」とご興味のある奇特な方、楽曲の試聴やダウンロードもできますので、是非覗いてみてください。アマチュアミュージシャンの方、コラボも大歓迎!アレンジもいたします。

こちら↓は自己紹介がわりです。アホ丸出しですが(笑)。
http://www.e-enesta.com/ore/flash15/fno282.htm

仕事では長年関わっていたHonda F1の仕事を辞し、イタリア車の広告制作を経て、現在は港区にある某広告代理店のクリエイティブディレクターとして、テレビCMやら広告やらを作っています。なんだか偉そうに聞こえるが、要は宣伝を作る上での何でも屋さんです。元来クルマ/バイク/レースのスペシャリストですが、今はなぜか女性下着のスペシャリスト。ご面倒な広告制作の仕事、よろずお引き受けいたしますのでご指名ください。

I'm OK, even if you give me a message in English,
and I'll certainly reply to you!
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