俺達のコラム
学力低下の本質


学力低下の本質 1 投稿者:教育者  投稿日: 1月24日(月)00時23分57秒

学力低下の本質 −学ばさせなくした犯人は誰なのか−

 学力低下が数字で次々と現れる中、『ゆとり教育』が見直しの方向である。
 しかし、現場で教えていると、『ゆとり教育』が後押しをしたとはいえ、それが直接の原因ではないことを感じる……。


■ 成績が悪くても大学に受かる現実

 今の高校生たちをみていると、驚くほど(現代文で書かれた)日本語の文章を読めない、書けない。そして分析力・考察力のなさ。社会の波をかき分けて生きていくのに必要な能力が、それ以前の世代と比較して低いと感じざるを得ない。

 ここまで読み進めて、それは最近話題の『ゆとり教育』のせいだろう、学力低下の典型だ、と思われるかもしれない。だが、それは違うとあえて言おう。ただ単に学んでいないのだ。大幅に削減された学習内容ですら! 


 年末あたりから、教え子たちや知り合いの子たちの『合格の喜び』の報が次々と届いている。私立大学の推薦入試の合格だ。年が明ければまた多くの合格の報が届く。正直に言えば「エッ?この成績でこんな有名大に?!」という感想を持つことも多い。国公立の場合はそうでもないが、それでも今の30代以上の時代とは感覚が異なる。
 背景には、受験人口が大幅に減り、ほとんどの学校で受験生を獲得することが至上命題になっている現実がある。受験生を確保するために、受験科目数を削減したり、説明会でアクセサリーを配ったりもしていると聞く。


■ 学ばないこどもたち

 なぜ子供たちは学ばなくなったのだろう。
 もちろん、知識偏重の反動から突き進んだ『ゆとり教育』の弊害はある。
 しかし、少ない内容ですら子供たちは学んでいない。学ぶ意欲を持っていないのだ。やらなくていいと思っている。

 小学生から中学生ぐらいの時期、一般に子供は知識欲が旺盛だ。いろいろなことを知りたがる。中学生から高校生ぐらいになると、深く考えたり、客観的に考え、断片的な知識をつなぎ始める。また社会の中の自分を強く意識し始める。
 子供は自ら学ぶ意欲を持っているのが普通だ。

 だが、学ぶ機会を奪っているものがある。それが子供を取り巻くものたちだ。
 さまざまな“ゲームやアイドル、携帯、ネット”などの作られた欲求に意欲を消費していく子供たち……創意工夫の余地を与えず快楽を与えて、代わりに子供たちからお金を巻き上げるビジネスが花盛りである。この影響は大きいと言わざるを得ない。
 しかし、それは背景の一つ。
 では、意欲を奪っているのは何者か?

学力低下の本質 2 投稿者:教育者  投稿日: 1月29日(土)07時26分32秒

■ 学ぶ意欲を奪うものたち

 子供たちにとって、学校で学ぶことは知識面が中心。いろいろな遊びやコミュニケーションの中で体の使い方、社会性、知識と問題解決の方法などを学んでいく。
 一方、水泳や体操・ピアノや珠算など、脳の発達への影響が大きく、幼いうちにしか身につけられないこともある。そうしたことは自然には身に付きにくい。ある程度の強制も必要だ(習い事に追いまくられて疲れ果ててしまうようでは本末転倒だが)。

 そうして育てた脳を活用していくのが中学生以上と考えてよいと思う。

 だがしかし、その大切な時期に子供を取り巻くものは何か?
 先に取り上げたさまざまな快楽が誘いをかけている。
 だが、生きる力と自分を磨く考え方さえ身につけていれば問題ない。しかし、大半はそうでない。


■ 親の問題

 受験戦争世代の親はいつまでたっても学歴主義が抜けない。ほとんど無意識に、いい大学に入らせることを至上命題においてしまう。偏差値ランキングの上位、「いい学校」というブランドを手にしたいという欲求が強い。だが、自身が体験したような押しつけられる経験はさせたくないと考えてもいる。その結果が『手抜きの教え』だ。


 大学受験をふまえて、親が受験に関係のない勉強はせずに最小限のことだけをやればいいといっているケースはかなり多い。余計な勉強はしなくていいから、捨てろと言う。

 自信のなさか、子をしかれない親が多いと言うが、多くのことをしっかりやらせられないからこそ『手抜き』で一つだけでもやらせようとする面もあるようだ。


 だが『手抜き』を教えることで、学ぶことへの意欲を削いでいることは否定できないだろう。
 今の子供たちは無駄と思うことは一切しない傾向が強い。高校3年生ならともかく、中学1〜2年生にして「私は文系に行くから理科や数学なんか勉強する必要がない!」と言ってはばからない生徒すらいる。困難からすぐに逃げ出し「必要ない」といい訳をする。やりもしないうちから「難しくてできない」という。すべてにわたって『手抜き』は蔓延している。

 単なる手段として勉強を強制し、何のために学ぶのか、学ぶことで何が得られるのか。それを伝えることが出来ない親が多いようだ。それは親自身がそうして育ったからに他ならないだろう。勉強は文字通り強制されるものと思っているのだ。

 日本の教育システムは、将来の自分像を描かせず、ひたすら大学まで無目的に走らせる。将来について真剣に考えさせられることもなかったために、大学生になっても目的はつかめない。それどころか、それまで大学入学を目的にしてきたために、入学で目的が完遂し、義務から解放され、自分の向かうべき方向を見失ってしまう。そのまま社会人になってもずるずると目的もなく生きて行かざるを得ない。
 親たちの対応は、そんな人間を再生産しているように見えてならない。いや、それどころか蔓延する『手抜きの教え』は、強制された目標にすら一生懸命にならなくてもいいと言っているようなものだ。人間は何かに挑戦するから達成感も得られ、目的も意欲もわく。だが、『手抜き』では達成感を経験することもなく無目的・無気力な人間を生産する。


 『手抜き』を教えているつもりがなかったとしても、たとえば中学受験をさせること自体が、『手抜き』容認のメッセージとなってしまうことがある。

(続く)

学力低下の本質 3 投稿者:教育者  投稿日: 2月 6日(日)08時16分5秒

■ たとえば中学受験

 中学受験ではひたすら効率のよい知識のおぼえ方や問題の解き方を学ばせる。それでなければ中学の内容の大半を2年ほどで小学生に教えることは出来ない。
 そうして育つ子供たちは、効率が悪いことを嫌がるので、応用力がなく自分で考えない傾向がある。与えられないと何も出来ないし、すぐに正解をほしがる傾向が強い。それが中学受験のための勉強方法だったからだ。
 真に学ぶことは、自ら工夫することであるが、一度「効率のいい勉強法」でやってくると、そのような方向にはなかなか行かない。面倒なことは本当に手を抜く。レポートを書かせればインターネットからのコピペを平気でやる。出典を明らかにし、丸ごとコピーは禁止しても、表面だけを繕う。自分の手で調べまとめることを「無駄」だと言ってはばからない。

 入学後、中学受験時の知識である程度食いつなげるから、勉強する意欲を持たなくなる生徒も多い。だが中学受験の知識と言っても、表面的であることが多く、そう言えばやった、と言う程度の定着度だ。しかし「知っている」「分かっている」と思いこんで掘り下げることをしない。だが親がそれを容認する。一度そうなってしまった生徒は、消費的な行動ばかりとり、埋没していくことも多い。

 また、入学後、親がこれまで頑張ってきたからこれからは自由にさせようとほっておくこともある。しかし、勉強さえすればいいと育てられ、自分で目的を持って行動することを学んでいない子供がほっておかれたらどうなるだろうか。
 どんな分野も入り口がなければ入れない。やらなくていいなどと言って親がその入り口をふさいでは、より深く学ぶ機会を得られず、学ぶことの楽しさを知りようもない。そして最短コースで「とにかく大学」などと追い立てていれば、学ぶ目的も生きる目的もわからぬままだ。

 中高時代はこれからの生き方をいろいろと試す時期であり、社会の中の自分を意識しはじめる時期だ。この時期に親が『手抜き』を奨励することで、これからの人生を支えるのに必要な経験が出来ず、子供はいつまでも親への甘えと依存を続け、自立を阻むことにもなりかねないのだ。

(続く)

学力低下の本質 4 投稿者:教育者  投稿日: 2月26日(土)07時54分41秒

■ 学校は……

 もともと学校はバランスのとれた教養を身につける場として期待されていたはずである。
 しかし、多くの進学系私立中・高等学校も、塾と同様に受験に向けたニーズに応えている。
 カリキュラムを私立大学受験に向けて特定の教科にばかり集中させ、文系なら理系教科が、理系なら地歴公民が非常に手薄い。受験に関係ない体育や技術家庭、芸術系など目も当てられない状況だ。私立大には強くても国公立に弱い学校はそのような偏ったカリキュラムになっていることが多い。
 『手抜きの教え』はここでも行われている。

 最上位の私立や多くの公立は教養主義だが、学校の意図に反して、生徒は受験に関係のないことはやらない。学校とは関係なく塾等で大学受験に備えている。


 皆の利害が一致して、少しでも楽をして『大学合格』という結果を出そうという方向に歯車は回り続けている。

 だが、そこには学ぶこと自体の目的がない。学ぶことにどのような意味があるのか、誰も教えてくれない。取りあえず大学に向かう手段として、親も塾も学校も子供に勉強を強いている。しかも受験に関係のないことは必要でなく意味がないとして制限し、社会で自立して生きる力を養うどころかそれを削いでいる。子供が広い教養を身につける機会と自分の道を見つける可能性を奪っている。

 生きる力を身につける以前に、学ぶ喜びを伝えられる教員もなかなかいないのだ。かわりに『手抜き』を教えている。


■ 飼い殺しの子供たち

 子供たちは、幼い時から生存の危機とは無縁で、生命にふれあうこともなく、分解しても原理の分からない機械ばかりがあふれる中で育っている。現代は身のまわりに知的興味を向けられる対象が少ない。大人と接することも少なく、ゲームや携帯、ネットなど、消費的な快楽が増え、自分の中で完結するものであるために人間関係も希薄になりがちである。
 一方で、子供たちは陰惨な社会状況ばかりを目にし、なんの夢も持てないままだ。夢や目的がなければ意欲などわかない。
 子供たちは広く学ぶ機会を得ないまま『無目的』にむかわされている。やりたいことが分からないが取りあえず危機意識もなく大きな不満もない。今の子供たちは、お腹いっぱいで見通しの利かない霧の中にいるようなものだ。

 霧の中、受験に必要のないことはやらなくていいといわれているからやらない。が、たとえ受験に必要なことでもあまり身が入っていない。周りがみなそうなのでますますやらない。学び方が身に付いていないのでやっても身にならない。
 しかし、自ら学ばず快楽の中に身を置いていても、少子で易化した大学には比較的簡単に入れてしまう。目的もないままに。

 どこにも夢も希望も見いだせず、全力で何かをすることもあまりなく、何となく満たされて何となく生きている。飼い殺しと表現するのが適切かもしれない。それが今の子供たちだ。

学力低下の本質 5 投稿者:教育者  投稿日: 2月26日(土)07時55分35秒

■ 本当の生きる力を

 大人たちは子供たちに無駄なことはしなくていいと言い続けている。しかし、そこにはどんな人間を育てたいか、どんな能力を子供のうちに身につけさせたらいいかという重要な視点が決定的に欠落している。
 やることが少なければ集中して一生懸命やれると考えるのは甘い。楽をさせればより楽な方へ流れるのが人間だ。つまるところ短慮で流されやすく、辛抱の効かない人間を育てているのだ。

 親や学校が無駄と思っている多くのことの積み重ねと、日常の失敗や手探りが人間を育てている。人生を切り開き、つかみ取るためのトレーニングである。『効率』のよい方法など、小ずるい人間を育てこそすれ、バランスのとれた成長には邪魔でしかない。親や学校の言いなりでよい子を演じ、期待に応え、効率よく挫折なく受験戦争をくぐり抜けた秀才がどれほど打たれ弱いか。大学以降で目的を見失っているものが多いか考えて欲しい。

 NEETの増殖は暗雲漂う社会が背景とはいえ、子供たちの教育に効率をもとめ、苦労をさせず快楽は与えてもその時々に必要な経験をさせなかったことも一因ではないのか?


 社会の方はまだまだ見通しが悪い。社会の中に目的をつかみ取っていくことは難しい。
 快楽にあふれ、食うに困らず何となく満たされている状況も続きそうだ。

 『ゆとり教育』の反動で『学力主義』にシフトし始めている。だが学ぶことを増やしても減らしても、『夢がなく目的が持てない』状況には変わりがない。目的がない中で量を減らしても勉強をするようにはならないが、量が増え難しくなれば確実に勉強しなくなる。ますます学ぶ意欲は減退するかもしれない。


■ むすび

 学力低下の理由はさまざま考えられる。学習指導要領の問題は大きいが、知識量として以前と同等のものを詰め込んだ中学受験生たちのその後を追えば主犯は他にいることは一目瞭然である。たとえ学習指導要領の改訂が行われなくとも同様の問題は起きていたと思われる。
 本論では学ぶ意欲の低下について、「親」「学校」を中心にまとめてみたが、一方で物事を考える根本となる国語力の低下が他の学力を低下させていることも指摘しておきたい。言葉の軽視が思考力の低下、文化の軽視、知離れへとつながっている。これには文化的環境要因が効いているものと考えられる。

 こんな時代だからこそ、子供たちに快楽を消費させるのではなく、『手抜き』を教えるのではなく、たくさんの経験をさせて生産的に過ごさせて欲しい。より広く学び、たくさんの経験を通して達成感を得れば人間は確実に成長する。自立を促すよい経験の積み重ねは『生きる力』となる。その中から生きる目的もつかむことが出来るだろう。目的をつかみ取れたものだけが、人生をよりよく切り開いていけると信じて進んで欲しい。




2005/2/7
"教育者"(ハンドルネーム)・・・言いたい放題BBSよりの転載

2005/2/26
シリーズの4と5を追加しました。
「教育者」様、有難うございました。



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