■極妻

ヤクザ投稿者:ぶよちょん  投稿日:11月23日(木)14時05分36秒

知り合いにいました。
つーか、実家が組事務所の大家だったのです。
当然、カタギと思って貸したのですが、突然、金甲板
を出されまして、事務所のご近所から苦情がいっきに
うちにきました。うちの親が弁護士さんや警察といろいろ
追い出す方法を相談しつつ、そこの組長さんとさしで
お話を何度もしましたが、結局はそこに事務所は居着
くことになりました。
まあ、貸事務所周辺は事務所や倉庫ばかりで人が住んで
いなかったのが良かったのか悪かったのか、周囲の同意も
何とか得られてしまい、なんともまるく収まってしまいました。
しかも、うちの両親は街で組員に遭うと
”にいさん””ねえさん”
と呼ばれるようになってしまいました。

そして、その後…、
ちょうど今ごろの寒い季節だったと思うのですが、
そこの組長さんが繁華街のど真ん中で抗争相手に
ピストルで撃たれて亡くなりました。
もう10年以上前の話です。

当時、まだ若かった私は、
その事件の後から、昔、近所の商店の娘さん
だった、その組長さんの未亡人から、
本当に強い人間の姿を見せつけられることになりました。
それは、いかつい顔つきの一見いかにも強そうな
どの組員達をもはるかに上回るモノホンの強い人間の
姿でした。

つづく。


極妻(続編) 投稿者:ぶよちょん  投稿日:11月24日(金)12時53分47秒

続きです。

ヤクザの世界のことは良くわからないのですが、
その抗争は、ほんとに激しい抗争だったようです。
当時は、今よりもずっと景気の良いご時世だったので
そういう時代だったのでしょうか、うちの貸事務所
にも銃弾が何度も撃ちこまれました。
一時は収まっていた周囲からの苦情も再燃して両親は
毎日頭を抱えていました。
事務所の窓ガラスは防弾ガラスに改造され、1階の
入り口すぐの部屋がドーベルマンの檻になりました。
両親は勝手な改造だと訴えようとしましたが、
弁護士さん曰く改善なので、被害額を請求できないから
民事なら裁判をやるだけ無駄だといわれました。
そんな激しかった抗争も、その組長の死を境にパタリと
やんだようでした。
そして、組長の死から一年以上が過ぎ、誰もが抗争のこと
を忘れてしまいました。
その頃、街角では保険の外交員として、笑顔を振り撒きつつ
頭を下げながら歩くその組長未亡人の姿がありました。

つづく。


極妻(3) 投稿者:ぶよちょん  投稿日:11月27日(月)21時22分17秒

おまたせって、だれも待ってねぇかも
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人の縁とは不思議な物です。
威勢の良かった組長の姉御は、保険の外交員となった今、
仕事のあいまに、自分の組を事務所から追い出そうとしていた
その、うちの両親の経営する書店に、なぜかよく寄るように
なりました。いろいろな世間話や相談をしていったようです。
うちの両親への呼び方も”ねえさん””にいさん”から、
”おじちゃん””おばちゃん”に変わっていました。
当時、街での彼女に対する風当たりは心地よいものでは
無かったでしょう。彼女は決して語りませんでしたが、
噂や偏見にさいなまれる日々では無かったのかと思います。
もしかしたら、彼女の話を事情をわかって親身に
聞くことが出来たカタギの人間は、うちの両親しか
いなかったのかも知れません。

組長の死から1年、彼女の苦労には計り知れないものがあったようです。
一人になった彼女を、だれも助けてくれなかったといいます。
彼女の親からですら、その世界のお付き合いにはついていけないと
言われたそうです。
それでも、彼女は言いました。
「残された組員達が、自分の夫と同じようにいつ命を落とすとも知れない、
はかない者達に見えました。本当にろくでもない放蕩者ばかりでしたが、
そんな人たちだからこそ、とてもはかなく、とてもいとおしかった。」と…。
そして、彼ら組員達のその後の行き場が決まった後、
彼女の手元には財産らしいものは、何も残っていなかったそうです。
「ヤクザに退職金や年金はありませんから。」
そう語る彼女を振り立たせたのは、残った子供だったそうです。。
”夫がこの危ない仕事から足を洗ってくれたら自分達は幸せに
なれるに違いない。”いつもそう思っていたのに、
あんな強くてみんなから恐れられていた男が死んでしまった後に思うのは、
家族はただそばに居てくれるだけでも幸せだということだったそうです。
だからこそ、自分は今ここに残った家族の為にこの境遇を乗り越えてがんばろう。
….たくさん泣いたその末にそう思ったのだといいます。
そして、昼間は保険の外交で夜は飲食店で、子供を養うために
彼女は必死に働く事となったのです。

そんな彼女の姿をみて、
私は、本当に”強く”なるためには”やさしく”なければならない。
そう思ったのです。
辛い境遇からの防波堤となり、子供達には笑顔と幸せな家庭を提供する
彼女の強さは、まさにやさしさのなせる技でした。
確かに、極妻の岩下志摩はかっこいいです。
しかし、彼女のやさしさには、そんないかついヤクザですら
”はかなくいとおしい”と言い放つ強さがありました。

そしてそれから更に数年後、成長した彼女の子供は….

つづく。(次でおわり)


小倉〜生まれでぇ玄海育ちぃ〜♪ 投稿者:柴崎@17  投稿日:11月25日(土)09時11分00秒

こんなタイトルで、いつか登場されたぶよさんですが、任侠ものの聖地のご出身だけあって、リアルですね。実は、私も、「無法松の一生」は、好きです。ガキの頃、観て、カルチャーショックを受けました。と、言っても、私の育ったところも、けっこうアノ筋の方々がいらっしゃって、小学校から高校に至るまで、必ず一人や二人、親分さんのご子息や、組関係のお坊ちゃまがいらっしゃいました。ところが、時代でしょうか、「静かなるドン」ではありませんが、ご子息方は、堅気の世界におります。(こぼれ話しなど多数ありますが、あまり詳しく書けないのが残念。以上です。いろいろ事情がありまして。)

さて、私の友人に、結構ツワモノのフリーライター氏がおりまして、実際にアノ筋になられた方々にアンケート(今から15年ほど前。対象年齢は、20代から30代)をして頂いたことがあります。一度だけ、錦糸町の喫茶店で、取材現場に同席させてもらいました。
その中で興味深いのは、そういう世界に入られたきっかけですが、
1位:「仁義無き戦い」を観て(菅原文太が好きで)
2位:高倉健が好きだから
3位:先輩が入っていたから
と、なっています。
今から15年前ですから、現在は、35〜45歳くらいの方々ですよね。
うまくゆけば大幹部ですね。
亡くなってる場合もありますけど。
これも、あまり突っ込んだ話は、書けません。では。


ヤクザねたはつづく・・ 投稿者:QP  投稿日:11月25日(土)10時37分35秒

ああっ、まだヤクザの話が続いてるぅ〜!!(゚ロ゚)

ぶよさんのヤクザ物語面白い〜♪
同級生の働きぶりを、そーっと観察してたらね、体育会をさらにさらに
キツクしたかんじで、めちゃめちゃ大変そうだった。(^^;)
今の若い子にはつとまらないかも??
熱海の○○会総本部では、「求ム・若い衆」なんだってよっ。
不景気の折、40−50代からの転職組(?)も少なくないってきいた。

10代の学生の頃、熱海の喫茶店やら海の家でバイトしていると
必ず数人連れでやってきてました>彼ら。
「ねえちゃん、わしの店こない?もっと稼げるぜ」などと、からかわれましたわ。(^^;)
(わしの店って、海岸沿いの「お風呂」の店ぢゃないだろーな!?と思いつつ・・聞けなかった)
そうそう、子煩悩な人多いの!
背中の「紋」を堂々と見せつつ、海で子供に泳ぎ教えてたりしてね。
熱海って、その手の人と共栄共存の町だから、
「金払いがいいから大切にするように」と、必ずオーナーからいわれたっけ。
そうよね〜 ホテルの大宴会場で、芸者さんとか呼んでパーっとやってくれるもんねえ。

続きの執筆よろしくね〜〜!


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