2002年、ジミー竹内は72歳になる。
脳梗塞で倒れ、遂にドラマー人生に終止符を打ったかと思われた日本ジャズ界の巨匠・ジミー竹内だったが・・・



第2章

2000年の正月。ジミーは脳梗塞から立ち直り、ドラムに静かに向き合っていた。カウントを取り、軽いテンポの曲が始まる。歩くのもやっとというジミーがスティック持っている。不思議な沈黙があり、そして大声援。誰もが信じられないといった表情をしていた。そう、既にドラマー人生を終えたジミーだったが、必死のリハビリのお陰で再びスティックを持てるようになったのだ。

「無理しなくていいよっ!」場内から野次が飛ぶ。時々、あ、しまったという顔をしながら、ジミーは必死でドラムを叩く。時にはバスドラのペダルを踏んでいるつもりでも鳴らない時もある。ハイハットのリズムが遅れることもある。しかし、間違いなくジミーが叩いているのだ。日本のジャズ界の最高峰として常に注目されてきたジミーがこうして再び甦ったのだ。



JR赤羽駅のホーム

更にあれから2年経った。もうスティックは持たない。みっともない姿をファンの皆さんに見せることができない、と言っていたジミーだったが、根強いファンの声援に応え、2002年の今年も新年会ライブを自宅でやってくれた。すっかり元気にはなったが、運動能力は復活していない。足取りも重い。しかし、力強いソロが出来るようになってきた。昔のような野獣の本能のような激しさはない。角がとれてまるくなった感じでもある。

この2年間、ジミーはファンの為に精力的にライブをやっていた。とは言っても、全盛期に比べたら十分の一の仕事量だろうか。京王プラザホテルで1ヶ月に一度サックスの増田ひろみなどと共演した。また、長らく別れていた伊藤潮もジミーとのセッションに参加してくれるようになった。2001年の夏は日本教育会館で70歳の記念ライブを行った。10年前の還暦祝いのように、世羅譲も、伊東ゆかりも、しばたはつみも、永六輔も、原信夫もいない集いだった。また、この10年でジミーの盟友も数多く他界していった。

ジミーは言った。僕は幸せだ。若い頃から第一線でずっと仕事できたし、優秀な弟子も数多く輩出してきた。今は仕事も無くなったし、集まってくれるお客さんも少なくなったけど、こうやってドラムを叩けるだけでも有り難いことだ。ただ、下手なドラムを聴かせたくない。いつまでドラムが叩けるか分からないけど、もうこれ以上は失礼だと思ったらドラムはやめる。

弟子の清家みえ子の取材の中で、ジミーは自分のことを記者にこう語っている。昔は手が勝手に動いて、テクニックでは誰にも負けない自信があった。病気をしてからもうあんな叩き方は出来なくなったけど、かわりに今まで叩けなかった音が出せるようになった。自分がこんな叩き方が出来るなんて信じられないくらいだ。これは案外嬉しいことなのかもしれない。

今年の新年会にドラムを叩いた元ジミーの弟子は、「ロールはたくさんやりました。ロールだけはジミーの弟子だ、と威張れるくらい得意なんです。厳しかったですからねえ。しょっちゅう殴られてましたよ。お陰でいつもこぶだらけ。僕は駄目な弟子だったんです。そうやって痛い目に遭っても懲りずにこうやって来てしまう。やっぱ先生の人柄に惹かれているんでしょうね。」と言う。

ロールといえば、前述の私が予備校に通っていた頃見たドラム教室でのジミーを思い出す。このお弟子さんは抽選会のロールをやる為にわざわざ来たようなものだった。新婚さんで、新妻と一緒に来ていた。
「懐かしいなあ。先生の家に来ると昔のことが甦ってきますよ。」
そう言いながらこの弟子くんは笑った。きっとジミーを親のように思っているのかもしれない。

ところで、ジミー竹内の弟子になり世界へ羽ばたいていったドラマーは数多いのだが、何故ジミーの弟子になるのか不思議だと思ったことがある。そりゃかつては大ドラマーで今でいうところのスマップ並みだったかもしれない。しかし、確実に時代はフォーク、ロック、ポップスへと進化を遂げ、ジャズもフュージョンが主流になっていった。若いドラマーだったら、なにもスウィング系のジミーへの弟子入りを志願しなくてもいいじゃないか。

こんな質問をジミーファンで、親衛隊長をやっている前出のY氏に聞いたことがある。そりゃ、やはり名声というのもある。華もある。でも、ジミーのドラムの本質を真面目に理解していたら、絶対弟子になってみたいと思うね。俺も長いことジミーとつき合ってるけど、才能があればとっくにジミーに弟子入りしてたよ。つまり、ジミーのドラムは本物だ。それに、ジミーは弟子を可愛がるからさ。ライバル同士ではいつも喧嘩してるから敵が多くて出番もどんどん減らしちゃってるけどさ。

そういえば、ジミーは業界のメインへのコネクションは確かに少ない。常に一匹狼でやってきた。妥協は許さない。例え共演者でも下手なプレイをした者や、乗りが悪かった演者を批判する。だから、名声だけが先行し、腕の悪いミュージシャンは余計にジミーと一緒のプレイを好まない。そういう部分でかなり損をしている。盟友原信夫はそこから育った大物らとともにどんどん名声を高めてゆく。一方のジミーはロカビリー時代からGS時代を頂点に次第にメジャー路線から退いていった。

ジミーにはシリーズものの「Drum Drum Drum!」というタイトルのアルバムがある。もちろん、ドラムをメインに作られているのであろうが、逆にドラムはリードをとる楽器の引き立て役のような気がする。このアルバムの参加ミュージシャンは多岐に渡っており、今で言うところのジャズ界の大物が勢ぞろいしている。別にジミーが彼らに遠慮してドラムを叩いているのではない。いつか「僕のドラムは静かだ。」と言ったように、メロディを担当する楽器を活かす叩き方なのだ。それでいて、存在感は大きい。熟年期に約10年間一緒にやっていた世羅譲トリオでも観客の目は常にジミーに注がれた。

べらんめえで、なにかというとバンド内でもめたり、業界をハスに見ていたり、ジミー竹内は一種の暴れんぼうだろう。始めてジミーのドラムソロを聴いたとき、まさにそんな感じがした。なにかの怒りを常に持っていて、それをドラムに叩きつけている。ファンはそんなところに惹かれているのだ。ジミーが声をかければ、北から南から日本全国からジミーファンが集まる。2002年の秋。ビールメーカー関連の社長やジミーの主治医らが発起人となり、千代田区のホールで約1000人規模のコンサートをやることが決定した。ファンとしては、心待ちである。

北区西が丘。赤羽駅から坂を上がった静かな住宅街。ここでジミーは奥さんと娘さん夫婦と静かに暮らしている。音楽家の妻として、大変な苦労があっただろう。しかし、奥さんは決して笑顔を絶やさない。娘さんは、母親の跡を継いでバレエの先生をやっている。芸術家の一家だ。小学生の女のお孫さんもいるので、ひょっとしたら3世代のバレエ一家になるかもしれない。できればジミー竹内を襲名する人間が一家から出てきてほしいのは私だけだろうか。

赤羽駅からジミーの家の方向を望む。

最近、ジミーの家を突然訪ねたことがある。冬の寒い夕暮れ時だった。インタホンを押して間もなく、端正な顔立ちの奥さんが出迎えてくれた。二階からゆっくりジミーが降りてくる。「よく来たねえ。嬉しいよ。ちょうど飲み始めたところなんだ。あがっていって。」ジミーは顔をほころばせてくれた。

(続く)



尚、本文は、思いついたことを適当に文章にしているだけの作業なので、
誤字脱字、表現力のクレームは一切言っちゃいかんよ。
しかも、本人も読み返してない。(笑)
ここまで駄文に付き合ってくださった貴方に感謝します。
2002年2月1日 著者

続きは、気が向いたときに適当に書きます。



【その後・・・】
このページを書いた時点では、ジミーは確かに元気だった。
しかし、現在、ジミーは入院してしまった。
あれから、4ヶ月近く経っている。
しかし、まさか、ジミーが再び倒れてしまうなんて、夢にも思っていなかった。
2002年5月31日 著者




>>> 頑張れ!ジミー竹内!

(ジミー竹内に捧ぐ・第3話)



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